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2026.04.02
【磯部正文】HUSKING BEE始動編
- BLOG
1994年の春頃に、僕とテッキンとヒロトとシゲの4人編成でバンドを始めようとしていた。そんな矢先、僕は盲腸、いわゆる虫垂炎の手術で入院した。3日間家で安静にして薬で散らすことにしたのだが、安静に失敗し(笑)、切除する手術をした。
当時、お医者さんに、「虫垂炎は寝不足の人がなりやすいよ」と教えられたが、正にその通り。発症前は、朝8時から夜9時か10時までバイトして、そのままオールナイトイベントに遊びに行って、2時間くらいしか寝ずにまたバイトに行って、オールナイトイベントに行ってを繰り返していたから。なので、寝不足で遊ぶのはお控えください。
安静に失敗した3日間は暇だったので、バンド名を20個くらい考えた。入院中の病院の屋上で、見舞いに来てくれた3人とバンド名決定会議。
「たぶん…このHUSKING BEEって感じが一番いいかな。かっこよすぎない感じで。」という僕の提示に全員、まあ、、、それでいいんじゃん、ってことで決定。
ちなみにHUKING BEEはスラング的な言葉。Husk(トウモロコシの皮)+-ing(動作)と、bee(仲間が集まる共同作業を表す語)から生まれ、人々が集まってトウモロコシの皮をむき、保存や交流のために共同で作業する集まりのこと。こんな意味合いがあるのもいいなと思えた。
このメンバーでの初ライブは下北沢の屋根裏だった(と思う)。まだオリジナル曲が1曲しかなかったので、Green Dayのコピーとかがメインだった。ちなみにそのオリジナル曲はOnly Wayというタイトルの曲だった。そうです。Only Wayが僕が初めて作った曲。
バンドを始めたばかりの頃は、お客さんが呼べるわけではないので、ライブハウスのノルマチケットを自分たちで売って支払うシステムが通常だった。2、30枚のチケットを友達に売るわけにもいかなくて、しばらくは自腹を切っていた。
その後、5、6回ライブをして、ヒロトとシゲはバンドを抜けた。シゲはマサが始めようとしているバンドを手伝うことになっていた。BACK DROP BOMBっていう名前のバンド。そのバンドはまだベースが見つかってなくて、これから探すということだった。
ほどなく僕とテッキンはサポートのドラマーと、ブッキングでのライブに出た。ブッキングっていうのは、まだバンドを始めたばかりで知り合いが少ないバンドのために、適当にライブハウス側が組んでくれるシステムのこと。その日にDIE KITCHENってバンドが出ていた。ベースの人と話していたら、もうすぐDIE KITCHENは解散するから、なんかベース弾けるバンドあったら紹介してと。じゃあちょうどいいかもと、マサに繋げて今に至るBACK DROP BOMBのベーシスト、トシくん。
そして、僕らは僕らでその日のブッキングライブで「今、ドラム募集中でーす」とMCをしていた。たまたま横浜のバンドが出ていて、そのバンドを見に来ていてMCを聞いて、「俺がドラム叩きたい」と言ってきたのが、レオナ。
かくして、3人編成でのHUSKING BEEが始まることになったのでした。
テッキン、レオナ、僕の3人で渋谷の飲み屋で初めてのバンドミーティングをした。どんなバンドにするか。すでにHi-STANDARDの勢いが増し初めていた当時。僕は思った。これからHi-STANDARDっぽいバンドが続々と始まるんじゃないかなと。なので、バンドが持つ匂いや雰囲気はHi-STANDARDと似ている部分があってもいいけれど、音や演奏力に対してリスペクトを持ちつつ、そこは到底敵わないから、自分たちの持ち味としてはメロディーの良さや8ビート主体の曲作りをすることを目指そう。そんなコンセプトを決めて、呑んで帰った。
レオナは横浜育ちだったため、その頃すでに横浜のバンドの友達とつながっていた。が、横浜のバンドが盛り上がってくるのも数年後の話。
なので、最初の頃は新宿Antiknockや高円寺20000Vにブッキングしてもらいライブを決めていた。今も忘れられないですが、新宿Antiknockでブッキングのライブが決まり、その日の出演バンドの中にボボ大流血というバンドがいた。僕らがライブハウスに着いて機材を運んでいたら、ボボ大流血がリハをしていた。なんとなくリハを見ていたら、Aメロが、う◯こというワードで始まる曲だった。う◯このあともなかなかなワードが連投される曲だった。一旦演奏が止まり、モニターへの音の要求をPAさんに各自伝えたあと、「じゃあ2回目のAメロの、う◯このとこからまたやります」とPAさんに伝えて演奏が始まった。その時、わけもなく、俺は東京に居るしバンド生活がやっと始まったなあ、と思った。ボボ大流血とは、その後の対バンはありません。
しばらくの間、ブッキッグでのライブをするなかでCricket’sというバンドに共同でEPレコードを出そうと誘ってもらった。4バンドで各1曲づつ。HUSKING BEEはOnly Wayという曲で参加した。「All Temptation…」というタイトルのオムニバスEPレコードが僕らの初音源となった。何枚作ったんだろか。おそらく200枚くらいじゃないかと。
その後は、西東京出身のナマステというバンドと仲良くなって、よく対バンしていた。REVOICEというバンドともよく対バンしていた。それぞれハードコアの重心のある独自のミクスチャーロックでかっこよかった。
そして、マサが結成して始まったBACK DROP BOMBの初めてのライブがあるとうことで見に行った。確か新宿Antiknock。初めて会うボーカルのタカは編み込みドレッド風の髪型でHIP HOPの匂いがプンプンした。DIE KITCHEN解散後にBACK DROP BOMBに入ったトシは、初ライブですでにオリジナリティー満載の曲たちにフィットしていた。
マサが俺と磯部くんは一緒にバンドやらんほうがええよ。やりたいことが違うけえ。と言ってた意味がクリアに見えてきた瞬間であり、お互いの迷いの無さを実感する現場だった。
その頃に、以前レッドイズアランチというバンド以後、Gtのヤス、Drのアットが組んだハードコアバンド、GMFも活動を始めていて、Voの遠藤くんと知り合った。アパレルブランドDEVILOCKを始動する前の遠藤くん。そして並行して、僕と同い年のメンバーで編成されていたSPROKET WHEELとも知り合った。東京出身のVo,GtマルとBa,Voのシモを擁したスプロケは、すでに友達以外のお客さんを呼べるバンドとして人気があった。
ある時、GMFのヤスが
「磯部、お前、S.O.BのTOTTSUANに似とるなあ」
と言った。大阪を中心に活動していたハードコアパンクのバンドのVoのTOTTSUANさんを、僕は見たこともなかったし知らなくて戸惑ったんですが、その当時、ああホントだねえ、という人が多かった。そのおかげでスプロケのメンバーを中心に、僕は、“とっつぁん”あるいは“とっさん”というあだ名で呼ばれるような時期があった。なので、その頃にライブハウスでよく会っていた人たちは、僕のことを今でも“とっつぁん”あるいは“とっさん”と呼んでくれる。時々そう呼ばれると、瞬く間に90年代のアイデンティティに回帰することが出来る。
こうして94年にバンド活動が始まり、対バンとの親交も増え、ライブの回数も増えてきつつの95年へ。
アムラーが流行し、野茂英雄投手がメジャー挑戦で海を渡り、ドラゴンボールが週刊少年ジャンプで最終回を迎えた95年頃からは、もう出来事の順序の記憶が不確かですが、歩みの記の続き、進めさせていただきます。
▼友人ポンちゃんが手書きで制作してくれたフライヤー。1995年だと思います。
▶ARCHIVE
Vol.8:バンド結成に向かって編2
Vol.7:バンド結成に向かって編1
Vol.6:上京編2
Vol.5:上京編1
Vol.4:広島〜高校時代編4〜
Vol.3:広島〜高校時代編3〜
Vol.2:広島〜高校時代編2〜
Vol.1:広島〜高校時代編〜
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▶RELEASE
会場限定販売の新曲4songs入りCD
「Primary Colors」2025/11/29リリース
▶LIVE
・4/3(金)
下北沢ReG
『ReG 16th Anniversary SPECIAL LIVE』
“ヒダカトオルと磯部正文"

