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2026.03.08

岡 泰史さんインタビュー(東北ジャム2013 in 石巻 実行委員長) | Road to 2026.3.11 Sendai

  • INTERVIEW

Road to 2026.3.11 Sendai
東北ジャム 2013 in 石巻


日程:2013年11月23日(土)、24日(日)
場所:宮城県石巻市 Onepark
主催:東北ジャム実行委員会

AIR JAM 2012が東北で開催された翌年2013年に石巻でAIR JAMの想いを引き継いで開催された音楽フェス、東北ジャム2013 in 石巻。
復興途中にあった石巻の沿岸部で津波の被害をうけ、その後スケートパークとして復活をしたOneparkで開催された東北ジャムはどのようにしてできたのか?
開催するにあたっての想いや、地元石巻への想いなどを実行委員長の岡 泰史さんに聞いてきました。


岡 泰史さんインタビュー


岡 泰史(東北ジャム2013実行委員長)
北村 孝之(ボランティアインフォ)


北村:
311の時って岡ちゃん、東京にいて、すぐに石巻に帰るという選択肢をとらなかったって聞いているんだけど、その時の思いというか、やっぱり地元が石巻の人が離れているときに地元がああいう風になって、すごくシンプルに言うとどういう思いだったかみたいなことをまず聞きたいと思います

岡:
僕、東京で2011年の3月11日を迎えたんですけど、その時職場が浜松町だったんですよ。その辺も結構揺れて、ビルも多いし目の前にガラス張の大きなビルがあったんですけど、もうすごいグラグラで、その時はまさか宮城が震源だって思っていなくて、ここが震源で起こっている地震くらいに思ってたんですが、ちょっと後に、近くにいた人から震源地は宮城・岩手の辺りだみたいな話を聞いて、あわてて母親と連絡を取ったんです。
その時電話つながらなくて、LINEで何回かはやりとりできたんですが、最初は「大丈夫みたい」「ここのみんなは大丈夫」「これから避難する」って何回かやりとりしたんですが、最後に「今から津波が来る」のLINEで途絶えちゃって、そこから連絡全くつかなくって…。

東京にいるうちの姉とかおじと従兄弟もいたんで、もう毎晩集まって家族会議じゃないですけど、いろんな情報を持ち寄って、生きてるのか、周辺はどうなっているのかみたいな情報を集めてました。
ちょうどうちの姉の同級生でトラック運転手やってた人が、地方から石巻に帰ってて家まで見に行くよって言ってくれて、5日目だったかな?行って確かめるしか方法がなかったので、全然近くないのにわざわざうちの実家まで行ってくれて、生存確認してくれたんですよ。生きてたってなったのが、地震から5日目くらいでした。

北村:
そうだったんだね。

岡:
で、実際自分が帰れたのが7日目ぐらいで、初めて東京からのバスが出た時に乗れて、石巻に着いたら、夜中だったんですけど、その時はもう街頭も全部消えてて、それだけでも異様でしたが、うっすら見える光景も目を疑うものでした。
実家に着いた時は電気がつかない状態だったんですが、家族に合流して数時間経った時にちょうど電気がついて、1週間ぶりについたって喜んでみんなで思わず拍手してました(笑)

北村:
電気がつくとやっぱ精神的にも嬉しいよね。

岡:
次の日うちのお店まで行って、泥かきとかしてたんですけど、やっぱ明るくなってからさらに自分の育った街の景色見ると、すごい悲惨さを感じて…
やるせないそのまま東京に戻ったんですよね。
仕事もあったし、何より石巻に残ってても、何もできないというか、仕事にならないというか、本当はその年に実家に帰るねって話はしたんですけど、今戻ってきても困るってなったんで1年間東京に残って、その間に自分も1年間実家に帰るまでにいろいろ考える時間もあったのと、かたやSNSとかで石巻で起きている色々な活動や取り組みを見ていました。

自分自身はやっぱり震災時に東京にいたので、経験してないんですよね、震災を。津波のこともそうだし、その後も1年間は東京にいたので、震災後の暮らしも経験していない。
なんていうか自分自身いずれ地元戻って仕事して行こうっていうのは、もともと決めてたことですけど石巻で生きていくのに、僕は震災を語れない…
あれだけのことが石巻で起こって震災のことはやっぱり後世に伝えなきゃいけない出来事だなって思う中で、伝えられない自分がもどかしいっていう、地元の人間なのに地元人じゃないような感じになってしまって、それでもう時間は戻れないから、だったらどういうふうに復興していくのか、どうやって石巻が変わっていったのか、そこに携わって、それを伝えられたらいいなって思って、それしかないなって思って、それで地元に戻ったらそういう活動をしようと思って、2012年に帰ってきたんですよね。

北村:
2011年にAIR JAMが開催されたけど、まずハイスタの発信で「届け!」ってAIR JAMを横浜で開催して、2012年に東北で開催するって情報が出てきたけど、そこは追ってた?


岡:
追ってました!次、東北でやるみたいになって、2012年の東北でのAIR JAMは行きたいなと思ってたけど結局いけなかったんですよ。

北村:
その後、2012年のAIR JAMが終わって、AIR JAMはなかなか難しいけど、何か東北で続けたいみたいな流れで、東北ジャムをやろうよみたいになったんだっけ?

岡:
自分の事から順を追って説明すると2011年に震災があってその年の12月にその時に仲良くしていた東京の音楽の友達と、いつか石巻で自分たちの音楽イベントして復興の応援になったらいいよねって話をしていて、東京で一緒に遊んでる友達とかを、石巻に連れて行ければなって。

やっぱりあの時に見た石巻の光景がすごく自分の中で鮮烈で、あれを見たら絶対感じるものがあるんじゃないかって。別に被災地に同情して欲しいとかじゃなくって、とりあえずあの景色を見たら絶対心境変わるからまず見てほしいなと。

そのためにただ来いって言っても来づらいから、楽しいことを、イベントやるから来てよっていう感じでやれたらなって思いはじめました。そして2011年の12月に初めてDJイベント、Newoldを始めるんですよ。
隔月でイベントを開催しながら、2012年には心の音楽祭っていう音楽フェスがあってそれに混ぜて欲しいってお願いして運営に混ぜて貰いました。ボランティアで石巻で活動をしていたとあるアーティストの方がやろうと声をあげたフェスなんですが、その時に初めてフェスの運営をやらせてもらったんですよね。

その後、11月だったか12月に難波さんのライブがOneparkであって、その時初めてOneparkの存在を知って見に行って、それを見てここだと思ってここでイベントさせて欲しいですってお願いに行きました。

最初すぐ受け入れてくれるわけではなくて結構通い詰めて、こういうことやりたいとかって話をし続けて、やっと認めてもらって、2013年の4月に初めてPARKROCK石巻を自分で主導で開催したんですよ。


その時難波さん見に来てくれて、難波さんが被災地で東北JAMやりたいっていう思いから、地元の人に協力して欲しいってことで僕がOneparkでやったこともあり一緒にやりましょうって。

北村:
そこが始まりか!
AIR JAMのつながりで難波さんサイドからこっちにも連絡きて、2回目くらいからの実行委員会に参加したのは覚えてる。

岡:
4月でそれやろうってなって、11月に東北ジャムを開催できたんですよね。

北村:
今、考えると、その期間でよくやったよね。難波さんのマネージャーさんを仙台でピックアップして石巻行ってさ、夜中まで実行委員会の会議やってたよね。
もう新幹線ねえみたいな。始発まで飲むぞみたいになって(笑)。

岡:
あの日々は濃かったですよね、仕事以上に、マジで。

北村:
でもなんか今考えると、最初ってこともあってOneparkの東北ジャムが一番濃かった気がする。お客さんもやっぱり想いがすごいあったし、ボランティアさんにも想いがあったし。
あとOneparkでできたっていうのも大きかったし、しかも中と外の2ステージだったし、なかなか頑張ってやったなって、今思ってもさ。


当時のことは、なんかあんまりもうさ、記憶がなくて。なんか怒涛すぎて、当時の細かいことわかんないよね。

岡:
俺もかなり飛んでますね、記憶。いろいろやったことは覚えてるけど、なんか場面場面しかなくて、本番の記憶ほぼない。なんか不思議なもんで、記憶はないけど、その時の感情や印象は強く残ってます。
北村さんと難波さんのマネージャーさんと打ち合わせしたり、ロケハンしたり、過ごした時間がやっぱり濃かったから、同志っていうか仲間っていうかその意識がすごい強いんですよ。

最近会ってなかったけど、そこは今でも強く残ってるっていうか、またそのメンバーで飲みに行きたいなって思います。

北村:
いいね!飲みに行こう!
まあ、でもよくやったと思うよ、あれだけ苦労したけど、あれだけのことができるとさ、なんか俺もできるんだって自信になったし、わからないなりにやってたけど、形になるんだと思った。

みんなで力合わせることの大変さも分かりつつも、パワーっていうか、なんかフェスとか音楽の力みたいなのを改めて感じた気がする。
それこそやっぱりつながりができたっていうのが、やっぱり当時は俺仙台住んでたけど、石巻の方が友達多いんだよね。大変だったけどやってよかったなって思う。


岡ちゃんは周りからはどう思われてたの? NewoldとかPARKROCKとかやってるってことに対して、東京の友達の反応と、石巻の人たちの反応が若干違うのかなと思ったりもするけどその辺どうだった? なんか今こんな時期にイベントやるなよみたいな雰囲気はあった?

岡:
まあ全員がそうかどうかはわかんないですけど、一応自分がPARKROCKやって、実際に東京から人が来てくれて、まあたぶん頑張ってんなぁとか、そんな感じで見守ってくれてたんだろうなぁと思います。
でもそんな中東北ジャムってなんかでかいことやってるなみたいな、周りは驚いてたんだと思います。

実際東北ジャムに来てくれた友達もいたんですよ。Oneparkの後ろの砂利のところで久しぶりに再会して、写真を撮ったなって今思い出しました。それは嬉しかったですね、来てくれたのは。


北村:
本業の仕事と、この音楽的な活動ってちょっと離れてると思うけど、それに対してこの本業側の人の感情というか、摩擦みたいなのがなかった?もっとちゃんと仕事やれよみないな。

岡:
あったと思います。摩擦っていうか、何やってるの?的な。
本当に仕事以上に時間使ってたから、それは間違いなくあったと思うんですよ。まあでも、一応石巻に帰るときに、親には宣言して帰ってきました。帰って家の仕事は大事だけど、そういうことをしたくて帰るから、復興支援になるようなイベントとかもやりたいって。

北村:
でも大事だよね、そうちゃんと言っておくことって。

岡:
仕事の人たちにも言葉足らずはあったかもしれないですけど、その辺はちょっと軽く話はしてるはずなんですよ。なので、その辺で全然うるさく言われたりせずに、送り出してくれてたのかなって思うんですよね。

北村:
岡ちゃんがそうやってPARKROCKやってなかったら、東北ジャムもなかったよね。なんかそれはすごいことだね!やった後、変わったことってあった?

岡:
やったことなかったけど、みんなで力を合わせたらできるな、といった自信にはつながったし、学生時代の文化祭的なノリであんなことができちゃったみたいな感動を覚えたけど、PARKROCKも凄かったんですが、東北ジャムはやっぱり規模が大きくなって、さらに達成感も大きかったですね。


やればできんだなっていうか、それを根本的に気持ちが一番大事なんだなって。
その気持ちが今の自分から見てもびっくりするくらい当時の気持ち強かったんですよ。成功させるっていうか、それに向かって、壁に当たってぶつかっては、こっちじゃダメだ、じゃあこっち行ってこうって。
これダメだから諦めるっていう選択肢がなかったし、ダメだったら違う方向からできる術をとにかく探すっていうか、何が何でもやるっていう、それぐらいの情熱を持てたのは、すごい自分にとっては財産だったって今思います。
それが一番でかいですね、自分の気持ちが大事。情熱が大事っていうか、それさえ強いものを最初に持っていれば、折れないっていうか。


北村:
やっぱ石巻にそれができたっていうことは岡ちゃんにとって大きかった?
震災の時はいなかったわけじゃん。帰ってきてPARKROCKとかやって、イベントみたいなところをやってきて、要は大きな成果が見える形で出たと思うんだけど。

岡:
一回流されて壊れちゃったけど、これをきっかけに石巻の新しい文化ができるチャンスだなって思って、音楽の文化が、新しく形でできるんじゃないかなっていうのも思って、アーティストさんが来れる環境を作れたらいいなって。
震災から時がたってもアーティストさんが来れる土壌を作れたらいいなって思ってました。

北村:
やったという事実は風化はするかもしれないけど、こういう話をするとさあ当時のことを思い出してエモい気持ちになるし、なんか当時のシーンシーンの景色もよみがえるし、やっぱ気持ちは消えないし、やったっていう事実は、自分の中で自信になってるんだなって思うよ。

それがすごく人生のプラスになると思っているから、やってやらないの選択肢じゃないけどやったことのデカさはすごいあるなって思う。

日本は災害対策で、どこで何が起こるか分からないけど、いろんな地域で俺はこの経験をもとに、石巻っていう町には岡ちゃんっていうバカみたいなやつがいて、そのバカと一緒に東北ジャムをやったんだって話をすることもあって、やっぱ実際にゼロからやったっていう事実は、ここでも一緒にやろうぜって話をする時にも説得力あるし、すごいことやってますねって目の色が変わるから、そういう意味でもあの時頑張って良かったと思うよ。



岡:
東北ジャムをやって自分自身の財産にはすごいなってるなって思うんですけど、この町の財産になったのかなって思うことはありますね。

北村:
いや、確実に石巻のためにもなったでしょ!
あれきっかけで来た石巻のボランティアさんとか、今でもフェスのボランティアに来てくれてる人いるし、そういう人がいっぱいいると思うよ。


なんかそういう普通の人が来るきっかけになったというか、音楽だったから来たというのはあると思ってて、普通に災害支援ボランティアに行く人もいるけど、石巻でこういうストーリーで音楽フェスやるって言うから来てくれた人もたくさんいると思う。それでやったら感動して、帰り道に泣いちゃうボランティアさんがいるくらい、いい場がつくれたんじゃないかって思うよ。
お客さんも作った側も、参加したみんなにとっていい場になったんじゃないかなと思う。

何かそれがもう全てなのかなって。手作りの良さというか完成されたイベンターがいてみたいなんじゃなくて、結構みんなで考えて作ったからこそ、あれだけ誇れるというか、なんか手作りの格好良さみたいなのは確実にあった。
今思えばもっと上手いことできたなとか、いっぱいあるけど、でもあれはあの時の最大値だったからね。

岡ちゃんは東北ジャム2013の石巻開催の時は、実行委員長みたいな立ち位置をしてくれてたと思うけど、その後の東北ジャムの違う地域での開催については、感情的にどんな感じだった?

岡:
女川関しては、もちろん隣の街で、嬉しかったんですよね。女川でやってもらえることが。一応共同代表っていう形でしたが、うまくバトンをつなげたのかなっていう気はしました。

北村:
女川開催もいろいろあったけど、確実にバトンは繋がったと思うよ。やってる内容も進化したし、できることとか仲間も増えたし。

岡:
イベントとしてはすごくいい場になりましたね。5000人規模でお客さん入って、すごいことやってのけたなっていうか、みんなの力でできたなっていう感じがありましたね。

北村:
その後、2018年に福島県のあだたらで開催して、それ以降、東北ジャムは開催できてないけど、それについては何か思うところはある?


岡:
まあ、正直言うと、やりたい気持ちはありつつ、でも今は仕事に集中しなければいけない時だとも思っています。そして前回開催からしばらくあいてしまったし、震災からも15年というところで今更なのかなっていう気持ちもどこかありますよね。

そして今は自分の目線がローカル目線になっているのかなって思ってて、いかに地元の人たちが自分たちの住むところで日常的に、月1回でも、2ヶ月に1回でも、何年に1回でもいいんですけど、地元の人たちに密着して当たり前のように作っていくことが大事なのかなって。

北村:
東北ジャムは非日常なんだろうなって思ってて、外からの人が、中の人を巻き込んでつくって、外の人も来るみたいな構造だと思うけど、やっぱり日常に落とし込んでいくっていうのが一番難しいなと思ってて、非日常はぶっ込めばできるけど、日常に落とし込むっていうことは、文化だし、蓄積と積み重ねをみんなの想いでそれを続けるっていう大変さみたいなものも絶対あるしね。

でもそれは石巻に住んでる人だからこそできることだと思うし、外の俺が言ってもそれは違うし、なんかでもそこに岡ちゃんがモチベーションを向けてるっていうのが俺は嬉しいな。
外の人間として応援できる、何かがあるなら手伝いたいと思うし、なんか形にしてほしいなっていう期待もある。

岡:
難しいのが、もちろん日常的にやるのもすごく難しくて、実際今できてるかって言ったらできてるわけではないのでお休みしてるんですけど、東北ジャムでやったこともそうですけど、自分の経験だったりを、下の子たちに見せてあげたり教えてあげたり、俺らが教わったようなことを伝えていきたいなって。

やればできるっていう成功体験を僕はさせてもらったと思っていて、その経験をこの石巻にいる若者たちが同じようにして、石巻で遊べるんだっていうか、石巻でこういうことできるんだとか、そういう成功体験を味合わせられたらなって。


でも残していく難しさっていうのは、あるなぁと思ってて、他の場所で開催するにせよ、ちゃんと現地に何か残して、さらに次に繋げていく術が確立できないとしんどいかなって。
東北ジャムっていう名前を残すんだったら、やっぱり、それがきっかけで始まった被災3県のどこかで残せたらいいなっていうのは正直あります。

北村:
なるほどね。

岡:
続けていけるその土壌というか、僕の中では一つのゴールっていうか、次の人に託して、自分が手放しで勝手にやってくれてるっていうか、自分が見に行く側になれた時、それが何十年後か分かんないですけど、1つのゴールかなって思ってて、そこまでアーティストさんとの関係性も残せるような形が残ってたらいいなっていうか、それが文化になっていくのかなって思うし、人が育っていってるってことなんじゃないかなって思います。

北村:
何をもってやるか、文化っていうところの軸だけじゃない、人を育てる音楽の街っていうのを継承しながらっていう部分はストーリーとしては絶対あると思ってて、それでやっぱりプラスになってる人がいて楽しんでる人がいてっていうのが日常に落とし込んでいくってことなのかなっていう気はし始めてるけど、答えがないし、事例もないし、難しいし、いろんなでっかいフェスで成功してるものあるけど、なんかそれの真似ではないものを、まさにゼロイチで作んなきゃいけないから、産みの苦しみはあるけど、でもできるとすごいことになるし、たぶんそれが石巻ではできる気がする。
なんか無理のない、サスティナブルな、今っぽい東北ジャム?
勢いで突っ走らない、勢いだけだと、絶対に続かないから、続くペースで無理せずやる。

岡:
東北ジャムの後は、結構な期間、廃人みたいになってましたもん(笑)。
正直、あの後、人と会いたくない時が結構続いてたっすね。

北村:
同じだ。わかる!

岡:
勝手な被害妄想かもしれないですけど。あの時いろんなところに頭下げに行ったりとかして、説明したりとかして、その後どう思われてるのか、よく思われてないんじゃないか、勝手に想像しちゃって怖くなってるっていうか、そういう時期も結構あったんですよね。

北村:
でもなんかそういう覚悟とかをもったうえでやるっていうことな気がするけどね。

岡:
なんか大袈裟に言うと、葛藤が常にあるっていう感じの状態になるけど、そういう時に、実行委員の仲間がいると、自分一人で背負い込まなくて済むので助けられたなと思ってます。1人だと心が潰れちゃう気がします。

北村:
そういう意味で言うと、実行委員メンバーで石巻の人と外の人のバランスは難しいところだったね。俺は外の人だから、毎回打ち合わせ終わったり、開催が終わったら石巻から出ちゃうけど、地元の人は石巻に居続けて日常な訳だから、そこでの関係性とかあるからね。
そこは岡ちゃんに負担かけたなぁと思ってます。

実行委員会を組む段階から、その辺は意識しておかないとダメだよねって学びだね。誰かだけに負担がかかったり、これをやって関係性が崩れるようなことは絶対しちゃいけないし。

まぁでも当時はそんなこともわからないし、そもそも勢いでやるぞ!って人が集まって走り出しているから、誰も何もわからずに走ってたんだけどね(笑)

岡:
そうですね、そんな中、本当によくやりましたよね。

北村:
よくやったよ!でもこの話ができてる時点で失敗から学べてて、もう経験値があるのから次は同じことにはならないよ。


岡:
あと、これは自分の所感でしかないですけど、やっぱりこう大きくしていくと、いかに周りを巻き込んでも、一時で終わってしまう時もある、一瞬で一回で力尽きてしまう人もいっぱいいるなって。

北村:
なんかこう、よっぽどその文化を作っていくとか、町に対しての日常を作っていくって意識を高めながら、常にそれを意識しながらやっていかないと、どうしてもピークがイベントの本番日に持ってきちゃうから、そこが通過点なんだよっていうのは常に意識してやらないといけない。

しかもそれをみんな同じ認識をもって、中長期目標を置いて、そのためのワンステップだよと。ちゃんと短期、中期、長期の目標を見ながら、1年目はとりあえずやろうとか、2年目は目標として数を入れるとか、そういうようなステップを踏んでいかないとだよね。

岡:
そうですね、まさに本当、短期、中期、長期の目標が見えてないと難しいのかなーって思いますね。

北村:
この10年でそんなことも考えられるようになったってことだね(笑)
この状態で東北ジャムしたら、面白い東北ジャムができそうじゃない?

岡:
そうですね!大変なのは大変だと思いますけど、前とは違った東北ジャムができそうな気がします。



インタビュー:2026年1月13日
引用元:岡 泰史さんインタビュー(東北ジャム2013 in 石巻 実行委員長/前編)
引用元:岡 泰史さんインタビュー(東北ジャム2013 in 石巻 実行委員長/後編)




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