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2025.10.06

【磯部正文】広島〜高校時代編〜

  • BLOG

1989年。僕は、広島県立広島皆実高等学校の2年生。
正式名称に広島が2回も入るこの高校は、卒業生に吉田拓郎さん、奥田民生さんがいらっしゃる。
僕には3歳上の姉がいて、姉も皆実高校出身。
姉が在校当時にUNICORNがメジャーデビューしていて、我が家でアルバム「BOOM」が流れる度に、
“わたし、ボーカルの民生と同じ学校に行きようるんよ”
と自慢されていた。

僕は中学生の頃、爆風スランプ(ファンクラブに入ってました)、THE BLUE HEARTS、JUN SKY WALKER(S)、アンジー、BOØWY、長渕剛etcの曲をよく聴いていた。幼い頃から、とにかく歌うのが好きで、ああ早く東京に行って、バンドやるのかソロで歌うのか全然定まってないけど、東京行って色んな人に会いながら自分の音楽作って歌いたいわ、と思っていた。ちなみに中学・高校の時の友人や知り合いに、この気持ちを話すと、“絶対無理でしょ”と言われることのほうが、当たり前に多かった。

高校受験が迫る頃、大学とか行かずに高校卒業したら速攻で上京しよう。とおぼろげに闇雲に決めていた僕は、最終学歴は是非とも皆実、皆実でお願いします!神様!もし、いたらこれだけは聞いてください。皆実でお願いします!と高校受験のテスト終了後に、第6希望まで書かなければいけない用紙を前に心震えていた。
当時の広島市内には公立高校が6校あり、同じ試験を受けた後で、通いたい高校の名前を希望順に書かなければいけなかったのだ。

実は、うちから一番近い公立高校は基町高校。歩いて2、3分で着く距離。試験に受かったとしても、基町に振り分けられる確率が一番高い。だが、自転車で30分くらいの通学距離があってもなお、皆実高校に通いたかった姉曰く。
“わたしは超絶第1希望が皆実の気持ちで、用紙には第2希望の欄に皆実書いたんよ。そしたら皆実になったんよ。民生と同じ高校なんよ、すごいじゃろ?”
その姉の言葉を思い出しながら、超絶第1希望の気持ちで、震えながら第2希望の欄に皆実と書いた僕は、数日後の合格発表のボードに自分の番号、そしてその番号の横に皆実の文字を確認。よっしゃあ!最終学歴皆実で決まったし音楽の道も決まったでー、と思ったのでした。


高校入学して間も無く、軽音・フォークソング部に入部。
バンドやってる人は、全然いなくてフォークギター弾いてる先輩だらけだった。
ちなみに楽器をやったことがなかった僕は、この部活に入って初めてギターを弾き始めました。
先輩たちのように思うように運指が出来ないまま、長渕剛さんの曲やビートルズの曲を練習していた。将来、歌詞を書くのに役立つだろうと、国語の授業だけは意欲的に受けて、放課後は毎日3、4時間部活で歌いまくっていた。

僕が高1の時にUNICORNは2ndアルバム「PANIC ATTACK」をリリース。「BOOM」の時よりも、うちでは僕のほうがUNICORNをよく聴くようになっていた。
お好み焼き屋、清掃業のバイトなどやりながら、広島のイベンター夢番地のバイトもよくやっていた。ライブハウスや大きなホール。JUN SKY WALKER(S)の公演にバイトで入っていた時に、公演開始前、「バイト君集まってー」とステージの下に集合がかかると、メンバーが出てきて、「今日の僕らの公演、みなさんよろしくお願いします」と挨拶してくださったことは、今でもよく思い出すリスペクトすべき光景。
当時は各公演中に、最前列のお客さんの前で、スタッフ数人横一列にひざまづいてロープを持ってましたね。好きな演者の公演の時は、よく振り返って見ていた。


ちなみに当時、洋楽のCDは縦長の紙とプラ密封のパッケージで売られていて、カセットテープも主流だった。オールナイトニッポンや、ラジオ番組でかかる曲をカセットテープに録音していた。

僕が高2の時、UNICORNは3rdアルバム「服部」をリリース。民生さんはやはりとんでもない才能のすんごい先輩だと痛感させられていた。
そしてその頃、僕の人生に大きく影響する出来事が起こるのでした。



▲1991年、18歳。高校卒業記念ライブにて。ブライアン・セッツァー(Stray Cats)の髪型みたいにしたいと思い、人生初のパーマをかけた頃。

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