「死ぬよりもつらいのは、死にたいのに生きなければならないことだ」――。
新国立劇場のオペラ2025/2026シーズンを締めくくるのは、6月29日(月)に初日を迎えるリヒャルト・シュトラウス《エレクトラ》。6月1日の稽古初日は、演出家ヨハネス・エラートによる出演者へのコンセプト説明から始まった。
エラートが冒頭で引用したのは、エレクトラも登場する古代ローマの劇作家セネカ『アガメムノン』の一節。その言葉からは、単なる復讐劇ではない《エレクトラ》の姿が浮かび上がってくる。
エラートがまず強調したのは、《エレクトラ》を「復讐の物語」としてだけで見てはいけないということだった。
父アガメムノンの殺害をめぐり、家族の中で暴力と報復が連鎖していく物語。エラートは、その世界をキリスト教文化圏における「原罪」の感覚になぞらえた。誰か一人だけが悪いのではなく、過去から受け継がれた傷や罪が人々を縛り続けているという見方だ。
さらに彼は、この作品がフロイトの精神分析が世の中に広がり始めた時代に生まれたことにも触れた。登場人物たちの行動を表面的な善悪で判断するのではなく、その奥にある無意識や心の傷に目を向けるべきだというのである。
その象徴として語られたのが、すでに亡くなっている父アガメムノンの存在だった。
舞台には登場しないにもかかわらず、音楽は「アガメムノンの動機」で始まり、同じ動機で終わる。エラートは、この作品全体が不在の父の影に支配されていると見る。エレクトラだけでなく、登場人物たちは皆、過去から逃れられずに生きているのだ。
説明会を通じてエラートが繰り返し立ち返っていたのは、登場人物たちが抱える傷や欠落の問題だった。
エレクトラは父の死に取り憑かれ、クリテムネストラは娘イフィゲニアを失った母として苦しみ続ける。クリソテミスもまた、一見もっとも健全に見えながら、生きることや母になることへの強い渇望を抱えている。
エラートは彼女たちを善人や悪人としてではなく、それぞれが欠落や執着を抱えた存在として見つめていた。その傷や欠落が、ときに執着や攻撃性となって表れるのだという。
こうした考え方は舞台美術にも反映される。
今回の舞台は写実的な宮殿ではなく、登場人物たちの心理が形になったような空間になるという。巨大なアガメムノンの影、閉ざされた箱のような空間、鏡のフレームや映像投影。そこが宮殿なのか、精神療養所なのか、それとも記憶の中なのかは判然としない。現実と幻想が重なり合う場所なのだ。
冒頭に登場する下女たちについての説明も興味深かった。
エラートは彼女たちを単なる小間使いではなく、復讐の女神たち、あるいは登場人物たちの内なる声として位置づける。欲望や恐怖、抑圧された記憶が姿を変えて現れた存在とも言えるだろう。
つまり舞台上では、目に見える人物だけでなく、その背後にある心理までもが存在感を持つことになる。
撮影:堀田力丸
印象的だったのは、オレスト登場の場面についての説明だ。それまで緊張感に満ちていた音楽は、この場面で突然、夢のように美しく柔らかな響きへと変わる。
エラートは、エレクトラが待ち続けていたのは弟そのものではなく、父の面影だったのではないかと語った。だからこそ、その場面の美しさは単なる救済ではない。そこには深い傷や不気味さも同時に潜んでいるというのである。
またエラートは、人間を単純な善悪や正常・異常で分類することへの疑問も繰り返し口にした。
「狂気」を意味するドイツ語 verrückt の語源は、「ずれている」「移動している」という意味の言葉だ。ある場所から見れば正常に見えるものが、別の場所から見ればそうではないかもしれない。絶対的な視点は存在しない。
《エレクトラ》に登場する人々もまた、それぞれ異なる立場から世界を見ている。エラートの描こうとするのも、そうした複数の視点が共存する世界なのだろう。
だからこそ彼は、リアルな出来事を再現することよりも、人間の内面を舞台上に立ち上げることを重視する。
人が歌うという行為そのものが、すでに現実を超えた表現である。エラートはオペラを、人間の魂を映し出すための装置だと語った。
説明会の最後に語られたのは、「必然性」という言葉だった。
終幕近く、エレクトラは「あの音楽は私の身体の中からあふれ出たもの」と歌う。エラートは、この言葉を引きながら、音楽も演技も、外から与えられるものではなく、自分の内側から生まれてこなければならないと力を込めた。
その瞬間、その人物にはそれ以外の選択肢はありえない。そんな必然性を持った人間たちを描くこと。それこそが、今回の《エレクトラ》でエラートが目指しているものなのかもしれない。
リヒャルト・シュトラウスの《エレクトラ》は、ギリシャ悲劇を原作とする一幕のオペラ。殺された父アガメムノンの復讐に生きる王女エレクトラを中心に、登場人物それぞれの過去や思いが、切迫した心理劇として描かれる。緻密に書き込まれたオーケストレーションは、人物の内面や関係性の変化をこまやかに照らし出し、物語に強い緊張感を与える。20世紀初頭のオペラにおける心理表現の到達点のひとつとされる。
新国立劇場の《エレクトラ》は6月29日(月)、7月2日(木)、5日(日)、8日(水)、12日(日)の全5公演。新国立劇場オペラパレスで。指揮はオペラ芸術監督の大野和士。出演は、アイレ・アッソーニ(エレクトラ)、藤村実穂子(クリテムネストラ)、ヘドヴィグ・ハウゲルド(クリソテミス)、エギルス・シリンス(オレスト)他。
文:宮本 明
TOP写真 撮影:堀田力丸
■チケット情報
https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventBundleCd=b2665587
撮影:堀田力丸
撮影:堀田力丸

