人生100年時代と言われて久しいが、いったい自身の経歴の幕引き時期を的確に見極められる人が何人いるだろうか?
この秋、レジェンドバリトン歌手:レオ・ヌッチが引退公演を日本で行う。昨年、ラスト公演と言われた2回の公演が空前絶後の大成功で、バリトーノブリランテは健在どころか、その黒光りの輝きは増すようで、今が全盛期なのではないか? と、正気になろうとする自分が居た。これで見納めかと思いながら、2公演を見終わり、彼に対する想い出を心に秘めつつ、まだまだ歌えるのに! という心残りが無かったと言えば嘘になる。
思い返せば、1980年代の輝かしいオペラ界を牽引し、三大テノールの全盛期の相方は、レオ・ヌッチが担ったと言っても過言ではないのではないだろうか。中でも、ヴェルディバリトンの代表格として、レオ・ヌッチの右に出る歌手は稀であった。呪いをかけられたリゴレット役、シェイクスピアが描き、策に溺れる策士のイヤーゴ役、《椿姫》でヴィオレッタを悲淵に落とすジェルモン役・・・どの役も後世のバリトンはヌッチと比較されてしまった。
バリトン歌手は、テノールに比べ歌手生命が長いとされているが、そのヌッチも御年80歳を超え、昨年のコンサートで幕をおろすと思い、雄姿を心に焼き付けに出向いた。
開演時間になっても、袖のドアが開かない、3分、5分、7分と静寂な時間が過ぎ、ようやく姿を現したヌッチは、どこか、寂しげで、背中を丸め、明らかに老人のそれであった、こちらも、見納めの心を持って優しい気持ちで心に焼き付けるつもりであった。プログラムの前半は、トスティのイタリア歌曲が並ぶ。寂しさをカタルシスに変える準備をし、悲しい歌曲の世界を待つや否や、ピアノが違う音を奏でた瞬間に事件は起こった!
なんとオープニングアンコール!『セビリヤの理髪師』フィガロのアリアで会場全員が一瞬にして大興奮の渦に巻き込まれ、あの寂しげな老人の姿は、そこには無く、背筋をピンと伸ばし、全盛期の輝かしいヌッチが目前でロッシーニを朗々と奏でているではないか! 観客全員が嬉しいドッキリに引っかかった瞬間であった。もう、そこからは、ヌッチの魔法にとりつかれたように会場全体の興奮が沸騰したまま、悲しい歌曲であろうと、オペラアリアであろうと、ヌッチの独壇場であった。筆者も半世紀を超えるオペラ、リサイタル鑑賞経験の中で、オープニングアンコールは初めての体験で、こんな嬉しいサプライズは、ヌッチの演技力無くては、成し得なかったことだろう。主催社へ取材したところ、関係者も誰一人このサプライズを知らなかったとのことだ。終始帯同していた通訳者でさえ、知らされていなかった。
©Mirella Verile
そんなレジェンド:レオ・ヌッチが正真正銘、最後の、本当に最後の来日公演を果たす。それも、彼の十八番オペラ《リゴレット》、《椿姫》を演奏会形式で、ミラノより室内楽を引っ提げての公演が実現する。『ヌッチと言えばリゴレット』、いや『リゴレットと言えばレオ・ヌッチ』と言われるほどの役者ぶりは健在であろうし、《椿姫》のジェルモン役は、深い悲しみのカタルシスへ我々を誘ってくれることだろう。
彼は完璧主義者で、人を喜ばせることが大好きで、それでいて、彼のオペラへの深い洞察力で、長年、我々に芸術への扉を開けてくれた。ラスト公演の2作品は、ヴェルディバリトンの面目躍如として、歴史に刻まれることになる。そして、その最後の瞬間には、きっと、誰も想像できない領域に我々観客を誘ってくれることを筆者は確信している。一夜限りのラスト公演に列席出来る人数はサントリーホールのキャパシティ2,000人限定だ。この歴史の瞬間を共に体験しよう! そして、歓喜の渦に溺れてみよう!
文:坂田康太郎
レオ・ヌッチ 最後の来日
■チケット情報
https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventBundleCd=b2560327
11月9日(日) 13:30 開演
サントリーホール 大ホール